私の視点からの「バカ」の定義

id:michikaifuさんのブログに、別の視点から、「バカ」の定義というのがありました。
これが結構うなずけます。そうなんですよね。事件等の記事があるたびに
「あっ、アスペルガーだろうなぁ」とか、「LDだろうなぁ」とかよく思います。もし、そういうことで、事件を起こす人がいたとしたら、それは、二次障害が入ってるんだろうなぁ。とも思います。アメリカでもいろんな事件がありますが、あまり障害が表にでることがないですが、バージニア工科大学での銃乱射事件は、自閉症と診断をうけたことがあるとはっきり言っていました。マスコミで彼の生い立ちを聞くだに、どこまで正しいか、どうか、わかりませんが、相当いじめられたなぁと思いました。学生インタビューでも学生が、彼が話す事にお金をかけて無理に話そうとしていた等を答えていました。



誰だって、いじめられたり、否定されるより、褒められる方がいいに決まってる。
学校の先生も本当に生徒に字を綺麗に書いてほしいのだろか?字が汚かったら、もう問題集や、宿題、プリントはしなくていいのだろうか?本当の先生の目的はどこなのだろうか?本当に勉強をさせようと思うのならば、まずは「よくがんばってるね」と褒めるべきだ。うちの渡も字が汚い。私が公文の先生に
「すみません。渡は、字が汚いので読みにくいとおもうのですが、採点お願いします」
と、こっそり言ったら、先生がすぐに渡に
「綺麗にかけたね。がんばったね。」
と褒めてくださった。先生は、ちゃんと見ていたんですね。渡がゆっくり丁寧に書こうと努力していたのだけど、できないことを。褒められた渡は、大喜び。自慢げに公文を続行していました。渡は、褒められたからと言って、字が綺麗に書ける訳ではない。けど、公文を嫌がることはない訳です。否定することによって、さらにできないことを増やす可能性があります。相手を決めつけて、否定する時、今一度考えてほしい。これを口にし子供を否定すれば、他に失うものがたくさんあるのではないか?と。これは、香穂にも共通してました。



香穂は、あまり家のお手伝いが得意ではありません。というのも、渡の面倒をみるのに、時間が割かれて、私と香穂が同時に台所に立つことができないからです。けど、この前、渡がディケアに出かけてる間に、わたしが買い物にでていると、台所と台所マットに掃除機をかけてくれました。とても気持ちがよかったので、正直に言って、お礼を述べて、褒めると、私が出かけてる間に、掃除機をかけてくれるようになりました。
「掃除機かけてよ!」
と怒るよりも、
「いやあ。うれしいわ。綺麗になって、気持ちいい。すごいわ。ありがとう香穂。」
と褒める方が、動いてくれるのが子どもたちです。



まずは、子供を信じること。他人の批判を鵜呑みにしたいこと。批判は、わりとその批判する人、当人ができないことが潜んでいる場合が多いです。
例えば、パニックや雄叫びをする自閉症に文句を言う人は、そのパニックを止めることができない。渡のドラムの先生は、渡が、パニックを起こすと、説明はするけれど、批判したり、否定したりしない。説明をして、渡の気持ちを聞き出します。なので、周りの否定の言葉を手のかかる子供を育てている母さんや指導者が鵜呑みにすると、のびるものものびなくなってしまう。id:michikafuさんが言うように、子供を信じること。信じてもらった子供は伸びること。これを誰かが周りでやらないといけないんですね。
自分に置き換えてみても、わかります。自分に接する人たちが自分を信じてもらえないっていうことをされると、とっても悲しいし、やっぱり嫌だと思う。自分がされて嫌なことは、人にしないって、幼稚園の砂場で教えてもらったことなんだよね。

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ (河出文庫)

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